博士の介護

間違った「努力」

男性はダイエット中のバーベルを使ってトレーニングをしようとしている。
doctoryoume23

1.努力は良いものという固定概念
努力は良いものという固定概念が日本にはもの凄くしっかりと植え付けられています。もはや植え付けられているなんてレベルではなく、がんじがらめと言っても過言ではありません。
勉学やスポーツにしても
「努力が足りないんじゃない? 」
「あのスポーツ選手は人並み外れた努力をしている」 
「あの社長が成功したのは凄まじい努力のおかげだ」
 という声が何かにつけて聞こえてくるかと思います。
 ですが、立ち止まってしみじみと考えてみてください。みんな大なり小なり、努力はしていますよね? しかし、全ての人が望み通りの状態になっているわけではありませんよね? かなり論理が飛躍しますが、「努力」は本当に素晴らしいことなのでしょうか?
「努力」という概念について今回は挑戦してみたいと思います。
もしかしたら、「努力」は呪いになっていませんか? 

 2.努力は私たちの時間を奪う最大の行動
「何かの資格を取りたい」
「テストで良い点数を取りたい」
「スマートに見られたい」
 私たちが努力をするのは、何かしらの目的があるからです。何の目的も無しで努力をすることはほとんど無いと思います。しかし、何かの目的に努力をすることは、当然ですが時間を使う必要があります。私たちは嫌でも時間を使う必要があります。それはほとんど不可避なことです。もちろん、仕事で部下など動いてくれる人が他にいれば話は別ですが、プライベートなどでは話は違うと思います。
 ここで私の実体験ですが、何かのスキルを得たいと思っても、どこかに行きたいと思っても、実際にそのスキルを獲得できたり、目的の場所に行けるのは10回挑戦して、2回以下ぐらいの感覚です。なので、残りの8回以上の挑戦は極論ですが、無駄になってしまいました。ココでさらに具体例ですが、この前、私は本を執筆してみました。挿絵から出版、広告まで全て自分でやりました。とんでもない時間がかかりました。しかし、結局としては大赤字でした。個人的には良い経験ができたと思っていますが、冷静に評価するなら大失敗です。これは、「良い本を書けば(努力すれば)必ず売れる」という概念が私の中にあっからだと思います。皆さんもありませんか? 
「身なりがスマートになれば、評価される」
「頑張って働けば、給料が上がる」
 しかし、そう思って努力をしても、評価されないし、そもそもその目標が達成できない。
つまり、努力には二つの段階があるのです。
最初は、「努力を達成できるかどうか」
2つ目は、「その努力が認められるかどうか」

 特に、この2つ目がコケると大変なことになります。仕事ですと、頑張っても評価をされないのです。
さらには、
「あいつは仕事をしていない」、
「勝手なことばかりをやっている」
と思われてしまいます。

この最初の「努力を達成できるかどうか」は
「努力の仕方」 と言い換えることができます。努力の仕方を間違えると、どんなに頑張っても目標が達成できない。もしくは、目標を達成するために多大な時間と集中が必要になってしまったりします。

2つ目の「その努力が認められるかどうか」は
「努力の評価」と言い換えることができます。この評価をする人、ジャッジは他人だったり、自分だったりします。この評価がきちんと得られないと、例え目標を達成できても、評価されない、満足できなかったりします。

 3.具体例(努力の仕方と評価)
 とてもお恥ずかしいですし、私自身の傷に塩を塗るような行為になりますが、先ほどの私の本の出版を再び具体例に挙げてみたいと思います。

この場合
「努力の仕方」は専門的な内容を分かりやすく理解してもらうために、「なるべく具体的に内容を書く」という仕方を取りました。結果、もの凄―く具体的に書いて、ページ数は600ページ、文字数では10万字、図は400個です。分かります? そんな長大な本、誰が読みたいと思いますか? パラパラとページをめくるだけでも30分くらい時間がかかります。そんな長大な本、売れると思う方がおかしくありませんか? ですが、当時の私は、そんな風には思っていませんでした。

「努力の評価」は経費を回収できる、つまり赤字にしないこと、でした。以上です。なので、どんなに長大で、専門的な内容の本を書いても、売れなければ、評価としては失敗、とみなしていたのです。これがもしも、経費を格安にして、その分、沢山の人に読んでもらうとかにしていれば、感じは違ったと思います。

 ここでお気付きかと思いますが、「努力の仕方」と「努力の評価」はけっこう似ていますし、集合的には重なり合っている部分もあるかと思います。

なので、良い「努力の仕方」は、良い「努力の評価」と似ていると思います。

 4.良い努力と悪い努力は見分けがつかない。時間が経たないと分からない。
 では、良い「努力の仕方」と、良い「努力の評価」をすれば必ず成功するのか? と聞かれると、そういうわけでもありません。そもそも、良い「努力の仕方」と、良い「努力の評価」とはやってみないと分からない、とうい面が多分にあるからです。「努力の仕方」にしても、その仕方が自分自身にあっているかどうか、自分自身の現在置かれている環境に合っているかどうかは分からないのです。

 5.どんな努力でも良いという盲信は危険
 今回、良い「努力の仕方」と、良い「努力の評価」を決める方法を書くことはしません。その二つは、説明するとそれだけでかなりの長さの文章になってしまうからです。ですが、良い「努力の仕方」と、良い「努力の評価」を決める以前に大事な事があります。それは、悪い「努力の仕方」と、悪い「努力の評価」をしてしまったら、さっさと撤退することです。この考えの根底には「努力は必ずしも良いものではない」という考えがあるからです。

6.努力をきちんと判別しよう。私たちができる努力には限りがある。
 まとめになりますが、今回の記事では「努力」について考え、分別をしてみました。皆さんにも認識してほしいのは「努力は必ずしも良いものではない」ということです。一方では、良い「努力の仕方」と、良い「努力の評価」は、やってみないと分からない、ということです。そして、悪い「努力の仕方」と、悪い「努力の評価」をしてしまったら、さっさと撤退することです。もちろん、ある程度、続けないと成果が出ない努力もあります。しかし、忘れないでください。私たちの時間は無限ではありません。私たちができる「努力」には限りが有ります。これは中学2年生の夏が一度しか来ないように、努力できる分野、量、質なども制限があり、有限だからです。

7.最も避けるべき、やばい「努力」
  これらを踏まえた上で、避けるべきなのは努力を闇雲にし続けることです。闇雲に、とは、努力によって良い方向に行ってるのか、悪い方向に行っているのか、全く判断せずに進む事です。これは楽しいかもしれません。ですが、下手をすると大切な時間だけがどんどん失われてしまうかもしれないからです。確かに、自分自身の努力が実を結んでいるのか毎度毎度、評価することはとてもしんどいです。ですが、趣味とかならいざしらず、仕事や勉学で評価をしない努力ほど危険な行為はないと思います。

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Doctor YouMe
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京都大学 理系博士/基礎ウイルス研究者
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